九代将軍の乳母 32 富丸編

私が退出しようとすると、また富丸がやって来た。二人の武士が付いている。
「乳母様、お戻りですか? 街は少し騒がしいようです。わたくしも下がりますので、お供致します」
 私にはいつも二人の警護の武士に、侍女が二人と荷を担ぐ小者が従う。その上に、もう二人付くと言う。どうしたのだろう? また戦が始まったのだろうか?
 夕焼け空にとんぼが群をなして飛んでいる。御所を出て北に向かうと、警護の武士が南の方を振り返った。それで気が付いたが、遠くに喚声が聞こえる。
「今日も集まって来おった。あれだと三条あたりだな」
と、話し合っている。私は白い稚児水干に束髪を長く背に垂らして前を行く富丸に声をかけた。
「あの声は? 戦でもあるのですか?」
「仕事の終った馬追い達が徳政を求めて集まっているのです。かなりの人数で、時々乱暴を働く事もあるので、危険です」
「徳政を?」
「その上、御台様が始められた七つ口の関所の廃止も求めています」
 いつか、光雄が関所は迷惑だ、と憤慨していた事を思い出した。彼等は荷物を持って郊外と京の街をしょっちゅう出入りする。そのたびに関銭を取られる。貧しい彼等は返すあてのない借金をし、稼ぐために動くと関銭を取られる。
 あの者達の子供達は十分食べれないに違いないと、私は昔を思い出した。
「不逞の者共もあの騒ぎに合流している。打ち壊しをやるつもりかも知れん」
 警護の武士は緊張した顔で禁裏の林の奥を覗いた。乱の初めに焼けた内裏は今。普請の最中だが、今日の仕事は終ったのだろう。静かだ。燃え残った林は下生えの手入れもされず、薄暗い。声に振り返ると白く怪しい影があちこちに潜み、夏だというのに吹く風は肌寒い。侍女がそっと私に囁いた。
「二日ばかり前、ここで追い剥ぎに遭って殺された人が居るそうです。まだ犯人は捕まらず、ここに潜んでいるらしいと言う話です」
「え?」
「警護の厳しいのもそのせいでございます。お天子様の居られるべき所がこのように荒れて、お天子様は未だにあちこちの屋敷に仮住まい。お痛わしい事でございます」
 私は暗い気持ちになった。ようやく再建できて政務も執れるようになった室町の屋敷から一歩出ればまだこの有様。被衣の中でうなだれて歩いていると、笛の音がした。
 どこから? と顔を上げると、先頭を行く富丸が吹く横笛だった。辺りは急に明るく涼風が静かに吹く夏の夕暮れに変わった。薄暗い木立の合間に見える白い物は夕顔の花だとわかる。侍女達の顔が明るくなり、武士達は肩の力を抜いた。荷を担ぐ小者の足どりも軽くなったようだ。
 家に帰り着くと、あれ以来祀るようになった舅姑の位牌に挨拶して、耀蔵の母の位牌にも参ろうと裏庭に出た。表の広い庭は男達の武技修練の場になっているが、裏庭も広く、ここでは女達が畑を作っている。
 はつは野良仕事は嫌いなのだが、最近は率先して肥やしをやっている。
「売りに来る野菜は京の入り口で関銭を取られるとかで、高くて手が出ないのですよ」
と、こぼしている。私達でさえ手が出ないなら、もっと貧しい者達はどうしているだろう?
「野菜だけではございません。お米も。なんでも、御台様が率先して買い占めておられるとか」
 嘘か本当か、私は言葉が出ない。
 その日は隼人も勝彦も戻って来なかった。光雄が遅くに戻って来た。二人の男が一緒で、門の所で何か大声で言い争っている。私は驚いて飛び出した。相手の男達は汚れた褌の上に菱形の腹掛けだけで獣めいた匂いがした。私を認めると彼等は恭しく頭を下げた。
「母様、すぐに家に入りますから」
 光雄は振り返って言った。
「へ、わしらの声の大きいのは地声なんで、ご心配はいりません。何ね、ぼっちゃんにちょっとお願いしてるだけでさ」
 男達はがらがら声で喚く。
「何度言っても駄目だよ。関銭の廃止だけなら私はいくらでも、おまえ達の肩を持つ。しかし、徳政令は認める訳にはいかない。今回は徳政令の要求を下げてくれないか」
と、光雄は驚くほど大人びた言葉遣いをした。
「両方ともわしらの命が掛かってるんで」
 ドスの効いた声で男達は執拗に食い下がる。私はどきどきして見詰めていた。光雄はまた振り返った。
「母様、大丈夫ですから家に入っていて下さい。この男達は私の仕事を手伝って馬に荷を積んで運んでくれている人達なのですよ。関所を通ると銭を取られるので困るね、と話合っていたら徳政令の事まで出して来たので、私は下りると言っただけなのです。彼等は私にも一緒に戦って欲しいのです」
 そして、男達に言った。
「今夜のめし代ぐらいは出してやる。しかし徳政令に拘わらず返してくれるだろうね」
「へ、それは、勿論」
 光雄が幾らかの銭を渡すと、彼等は帰って行った。
「無茶をするなよ!」
 その後ろ姿に向かって光雄は怒鳴った。彼等の姿が夜の闇に消えると、首を振って家に入った。
「幾ら私が十分駄賃をやっても仲間同士の博打でスッてしまうんだ。あの二人はまだ妻や子が居て、ましだが、仲間うちには質の悪いのが居るから」
 すっかり大人になった光雄を私は改めて眺めた。背は勝彦より高いし、肩もがっちりしている。揉烏帽子ではなく投頭巾なのも老成した印象を与える。考えてみると光雄ももう十九歳(満十八歳)、大人なのだ。
「光雄は徳政令には反対なのですか?」
 一緒に門の中に入りながら、尋ねてみた。
「当然ですよ。貸した銭が戻って来ないなんて、理不尽ではありませんか? それでは、あいつらは借り得です。私達は貸し損。馬追い達に貸すぐらいは額が少ないですが、庄園や大名達に踏み倒されたら、貸した方が首を括らなければなりません」
「まあ、そなたは聖護院様の御用をしているだけではないのですか?」
「あんちゃんに頼まれて、御所様に用立てる事もあります。御所様も随分内輪はお苦しそうですね。あんちゃんはいつも金策に走り回っている。自分で使うのでもないのに」
 そこまで言って急に光雄は口を閉じた。私は衝立を立てられたような気がして、次の言葉が出なかった。驚いて見ると、光雄は静かに歩いているだけだが、その幅広い肩は私の子供とは感じられなかった。勝彦も光雄も遠い世界に行ってしまったのではないだろうか?

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