九代将軍の乳母 31 富丸編
勝彦が背後で、声を掛けて来た。
「御台様、お成りでございます」
富子も義尚の出家の覚悟を聞いて飛んで来たのだ。富子は義政と小川御所に住んでいるから、いち早く知らせが行ったのであろう。私と同じくすぐに動く所などは公家の娘らしくない。義尚の新妻はきっとあのまま部屋から動かないに違いない。私達姉妹は誰に似ているのやら?
大名や公家達は追い返せてもご母堂様を追い返すわけにはいかない。それに今回、義尚は父に腹を立てているのであって、母にではない。
私は座を下がって平伏した。紫地に藤模様の小袖に浅黄の小袴という私よりも身軽な衣裳で富子は摺り足で足早に近づいて来た。義尚は不承不承席を下がった。
「如何致されたのじゃ。髪を下ろすなどとは」
座に着く前に富子は義尚を見詰めながら言った。宥めるようでも怒っているようでもない。富子も戸惑っている。一人前の将軍として扱うべきか、子供として扱うべきか。富子の戸惑いを見ながら、私は義尚はまだ子供なのだと思わざるを得ない。母を困らせている子供に過ぎないのだ。その通り、義尚はふて腐れたような顔で黙っている。
「大御所様と意見の相違がございました」
傍らの近習が替わって答えた。この近習も腹にすえかねているのか、なおも言った。
「この儀ばかりではございません。これまでも度々、御所様の御裁可を覆されました」
富子はじろっとその近習を見た。
「御所様はまだお若い。政治の何たるかをようご存知ではない。よいよい、大御所様にも申しておこう。よくお教え致すようにとな」
富子は義尚や近習の不満そうな顔を見て、また言った。
「一条様は義尚もよく話を聞くと伺っている。一条様からお伝え願おう。切った髪は伸びるまで致し方あるまい。そのようにして烏帽子を被せておくがいい」
油で固めて上げた髪の上に辛うじて載せられた義尚の烏帽子を見ながら言った。一条様とは一条兼良の事だ。古今随一の教養人との呼び名が高く、義尚も尊敬している。
「母上様のお心をお騒がせ致し申し訳ありません」
義尚はやっと小さな声を出した。激情が過ぎ、反動で落ち込んでいる。周りの者がまだ怒っている。
「一度、小川御所にも参られ、大御所様にご挨拶申し上げてはどうか? 親子でてんでな事をやっていては、天下の迷惑じゃ」
富子の後ろで近習達はあからさまな嫌悪を見せている。将軍の決定と言うが、近習共の思惑が大きいのではないか? 彼等が焚きつけて親子の溝を深くしていると感じられた。
富子はちらっと私の方を向いた。
「乳母殿もご苦労な事」
「わたくしがついておりながら、面目次第もございません」
「御所様も気分が落ち着かれたようじゃ。私は乳母殿のお局(部屋)で喉を湿してから、戻りましょうかの。慌てて参ったので喉が渇いた」
東の対屋に戴いている局に富子を招じ入れ、急いで茶を淹れさせた。
「大御所様にも困ったものよ」
人払いすると、富子は愚痴りだした。
「あの方が将軍にお成り遊ばした時はまだ幼く、周りが全てを仕切っていた。判始めが過ぎると、義尚と同じように張り切っておられたそうな。しかし、坊ちゃん育ちなものだから周りにいいようにされて、だんだん興味を無くされ、今では風流の道しか考えておられない。それも随分な凝りようじゃ。今度はまた東山に別荘を建てると夢中になっておわす。その費えはどうするつもりであろうかのう。私は些か内裏には御用立てたが、あの方の我が儘には用立てるつもりはない」
幕府は火の車だが、富子は大名達に融資して十分持っている。
「御所様も大御所様を真似ておられるのでしょうか?」
私はそっと尋ねた。
「そうは成らないように育てたつもりじゃがのう。やはり周りに引きずられる」
「あの者共は御所様の手足、耳目ですから大事になさるのです」
「それはよいが、彼等も彼等の思惑を通そうとする」
そして淋しそうに笑った。
「人とは、厄介なものじゃ」
「御台様、お成りでございます」
富子も義尚の出家の覚悟を聞いて飛んで来たのだ。富子は義政と小川御所に住んでいるから、いち早く知らせが行ったのであろう。私と同じくすぐに動く所などは公家の娘らしくない。義尚の新妻はきっとあのまま部屋から動かないに違いない。私達姉妹は誰に似ているのやら?
大名や公家達は追い返せてもご母堂様を追い返すわけにはいかない。それに今回、義尚は父に腹を立てているのであって、母にではない。
私は座を下がって平伏した。紫地に藤模様の小袖に浅黄の小袴という私よりも身軽な衣裳で富子は摺り足で足早に近づいて来た。義尚は不承不承席を下がった。
「如何致されたのじゃ。髪を下ろすなどとは」
座に着く前に富子は義尚を見詰めながら言った。宥めるようでも怒っているようでもない。富子も戸惑っている。一人前の将軍として扱うべきか、子供として扱うべきか。富子の戸惑いを見ながら、私は義尚はまだ子供なのだと思わざるを得ない。母を困らせている子供に過ぎないのだ。その通り、義尚はふて腐れたような顔で黙っている。
「大御所様と意見の相違がございました」
傍らの近習が替わって答えた。この近習も腹にすえかねているのか、なおも言った。
「この儀ばかりではございません。これまでも度々、御所様の御裁可を覆されました」
富子はじろっとその近習を見た。
「御所様はまだお若い。政治の何たるかをようご存知ではない。よいよい、大御所様にも申しておこう。よくお教え致すようにとな」
富子は義尚や近習の不満そうな顔を見て、また言った。
「一条様は義尚もよく話を聞くと伺っている。一条様からお伝え願おう。切った髪は伸びるまで致し方あるまい。そのようにして烏帽子を被せておくがいい」
油で固めて上げた髪の上に辛うじて載せられた義尚の烏帽子を見ながら言った。一条様とは一条兼良の事だ。古今随一の教養人との呼び名が高く、義尚も尊敬している。
「母上様のお心をお騒がせ致し申し訳ありません」
義尚はやっと小さな声を出した。激情が過ぎ、反動で落ち込んでいる。周りの者がまだ怒っている。
「一度、小川御所にも参られ、大御所様にご挨拶申し上げてはどうか? 親子でてんでな事をやっていては、天下の迷惑じゃ」
富子の後ろで近習達はあからさまな嫌悪を見せている。将軍の決定と言うが、近習共の思惑が大きいのではないか? 彼等が焚きつけて親子の溝を深くしていると感じられた。
富子はちらっと私の方を向いた。
「乳母殿もご苦労な事」
「わたくしがついておりながら、面目次第もございません」
「御所様も気分が落ち着かれたようじゃ。私は乳母殿のお局(部屋)で喉を湿してから、戻りましょうかの。慌てて参ったので喉が渇いた」
東の対屋に戴いている局に富子を招じ入れ、急いで茶を淹れさせた。
「大御所様にも困ったものよ」
人払いすると、富子は愚痴りだした。
「あの方が将軍にお成り遊ばした時はまだ幼く、周りが全てを仕切っていた。判始めが過ぎると、義尚と同じように張り切っておられたそうな。しかし、坊ちゃん育ちなものだから周りにいいようにされて、だんだん興味を無くされ、今では風流の道しか考えておられない。それも随分な凝りようじゃ。今度はまた東山に別荘を建てると夢中になっておわす。その費えはどうするつもりであろうかのう。私は些か内裏には御用立てたが、あの方の我が儘には用立てるつもりはない」
幕府は火の車だが、富子は大名達に融資して十分持っている。
「御所様も大御所様を真似ておられるのでしょうか?」
私はそっと尋ねた。
「そうは成らないように育てたつもりじゃがのう。やはり周りに引きずられる」
「あの者共は御所様の手足、耳目ですから大事になさるのです」
「それはよいが、彼等も彼等の思惑を通そうとする」
そして淋しそうに笑った。
「人とは、厄介なものじゃ」
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